突然 Robert McCall

Glassの音楽を聴いていたら突然思い出した。
1982年の『マッコール展』
それで『マッコール展 フィリップ グラス』で検索したら
こんなページがヒットした

あのマッコール展をプロデュースした人らしい。
この展覧会へ行かなければGlass Worksを聴くこともなかっただろうし
今の音楽趣味も無かったかも。
と一瞬思ったが、
1984年にシネヴィヴァン六本木でKOYAANISQATSIを見るから
そんなことないか。


原宿ラフォーレミュージアムで開催された『NASAアートの巨匠 マッコール展』と
そのすぐ後だったかに見た『ナムジュン・パイク展』は強烈だったな。


シネヴィヴァン六本木と言えば、
『カオス・シチリア物語 KAOS(1984・イタリア)』の音楽を聴き直したいのだけど
サウンドトラックが見つからない。

https://www.youtube.com/watch?v=VZfJJ1rC-wo


<2018年3月18日 追記>
映画の映像付きがあった。
33年振りに見る事ができた。
Mozart
Le Nozze di Figaro
Act 4: L'Ho Perduta, Me Meschina
https://www.youtube.com/watch?v=HgWzhYj2Nsw


そして『カオス・シチリア物語』のこのシーンと『フィガロの結婚』について
まさにしっかりと解説しているブログも見つけた。

あまりに素晴らしいので無断で引用させていただくと…

ちょくちょく訪問させていただいているロンドン在住dognorahさんのブログの最新記事にロイヤル・オペラハウスで6月4日に上演された「フィガロの結婚」のレポが載っているが、それを読んでバルバリーナ(ソプラノ)が第4幕の冒頭で歌うカヴァティーナ「L'ho perduta, me meschina(無くしてしまった。どうしよう)」を思い出した。


スザンナからの手紙(実は好色なアルマヴィーヴァ伯爵をこらしめるために仕組まれた策略)の封を止めるのに使われていたピンを本人に返すよう伯爵に言われた少女バルバリーナは暗闇の中でピンをなくし、途方に暮れる。そんな彼女が取り乱して歌うのが、このカヴァティーナだ。「フィガロ」の中で唯一、最初から最後まで短調(へ短調)で書かれている曲で、わずか36小節と短いながら他のアリアとは異質な、印象に強く残る歌だ。

L'ho perduta... me meschina...
ah, chi sa dove sarà?
Non la trovo... E mia cugina...
e il padron ... cosa dirà?


無くしてしまったの。
どうしよう、一体どこにいっちゃんたんだろう。
ああ、見つからないわ。
従姉(スザンナ)は、そしてお殿様(伯爵)は
なんて言うかしら。

ある研究によれば、ピンで封印されたスザンナの手紙は彼女の処女性の象徴であり、伯爵との密会を承諾する手紙(それはスザンナと伯爵夫人が仕掛けた罠なのだが)の開封は、すなわち彼女の処女を奪うことを意味する。伯爵は手紙を開ける際にピンで指を刺す。処女のスザンナでなく、それを奪おうとたくらむ伯爵が「出血」してしまう皮肉。そして封印のピンを無くすことはスザンナの処女喪失を象徴するとともに、伯爵の愛を受け入れるならなんでも望むものを与えてやろうと誘惑されているバルバリーナ自身の処女性の危機をも意味しているという。(Zemach, Eddy and Tamara Balter. "The Structure of Irony and How it Functions in Music." Philosophers on Music: Experience, Meaning, and Work. Ed. Kathleen Stock. Oxford and New York: Oxford University Press, 2007. 189-90. Print.)


このオペラは領主の初夜権をめぐる伯爵と庶民カップル(フィガロとスザンナ)の攻防戦がテーマになっていることを考えると、なるほどとうなずける。たかがありふれたピンをなくしただけでバルバリーナがそこまで取り乱す理由がハッキリするというものだ。



古楽界の実力派アイドル、ヌリア・リアル嬢 (´Д`;)ハァハァ の歌唱で聴いてみよう。清純でいてしっかりと成熟した声が素晴らしい。


この歌を私が最初に聴いたのはオペラでなく、イタリアのタヴィアーニ兄弟の映画「Kaos(邦題:カオス・シチリア物語)」(1984年)だった。これはイタリアの大作家ルイジ・ピランデッロの、シチリアの土俗的な香りがする小説をもとにしたオムニバス映画で、最終章に作家自身が登場し(演じるのは、禿げ頭フェチの私としてはたまらないイタリアの名優オメロ・アントヌッティ)、久しぶりに訪れた生家で亡き母の霊と対話する。その母が少女時代を回想するシーンに非常に印象的に使われていたのがこの歌だ。


母の亡霊は、功成り遂げたものの人生に疲れた息子に「もはや見られなくなった者の眼でものを見るようにしなさい。そのほうが辛いけれど、物事がずっと美しく、尊いものに思えてくるのよ」と諭し、子供時代の思い出を話しはじめる。



少女だった母は、亡命したその父を追って家族でシチリアからマルタ島へ逃避行する途中、ある島で小休止した。子供たちは真っ白い砂と軽石でできた山から、真下にある紺碧の海めがけて駆け下りていく。そこでバルバリーナの歌が流れる。辛い亡命の旅の中でも子供たちは楽しみを見つけ、目の前には希望にあふれた未来を象徴するような大海が広がっている。



日本でこの映画が公開された当時(1985年)、子供たちが白い砂山をぴょんぴょん駆け下りるシーンがバルバリーナのカヴァティーナとともに予告編に使われて盛んに流されたので、私のように映画を通じてこの歌を知った人も多いのではないか。亡き母親の少女時代の回想に「無くしてしまったの」という歌が流れるのは、まことに興味深い。イタリア映画だから、本国の観客は「L'ho perduta... me meschina...」というイタリア語の歌詞をダイレクトに理解したはずだ。