無失点 無得点 無記憶

wine2006-06-18

川口!!!! ↑↑↑
柳沢!!!! ↓↓↓


という事で喜んだり嘆いたり、みんなで大騒ぎ。
楽しい観戦だった。
川口は凄かった。


ワインとビールをグビグビと空け、皆様がお帰りあそばせられた後でブラジル−オーストラリア戦を見る前に私自身は沈没。
後片付けもできずにかなり奇行をしたようだが、記憶は殆ど無く、妻は多くを語らず…

川口能活ジュビロ磐田


「無意識に左に飛んでいた」


(PKは)前の日にビデオで見ていたんだけど、まったく忘れていて、最初は右に飛ぼうと思っていた。だけど、「ちょっと待て、ここは逆かな」という読みがあった。気がついたら無意識に(左に)飛んでいた。あそこで取られていたら厳しい状況になっていたと思う。何とか持ちこたえて流れを引き寄せたと思ったが、点が入らなかった。次に望みがあるので、可能性がある限り全力でやるしかない。
(加地からのバックパスが跳ねたときは)あれはあり得ない。完全に普通のバックパス。前線を見て「動け」と指示を出して、トラップしようとした瞬間に跳ねた。あの後、同じようなボールがきたときは、きちんとボールを見てトラップした。
 後半は両方とも疲れていたし、こっちにもチャンスがあったのに決められなかったのは残念。
sportsnavi.com 2006年06月19日)

マッチ28/バドワイザー・マン・オブ・ザ・マッチ:中田英寿(日本) 2006年6月18日 by FIFAworldcup.com
クロアチアに対し0-0の引き分けに終わったものの、中田英寿がキープレーヤーとなって日本のチャンスを作り出した。彼は攻撃の司令塔として止まることなくピッチ上を駆け回り、バドワイザー・マン・オブ・ザ・マッチの座を獲得した。


中田英寿は日本において非常に重要な役割を果たしていた」と分析するのは、FIFAテクニカル・スタディー・グループのジム・セルビーだ。「彼は守備と攻撃の連係役となり、見事にプレーをコントロールした。終盤にかけて少々疲れてきていたようだが、試合の流れとチーム全体のプレーを考慮すれば仕方のないことだ。」


「中田と同じく、極めていいプレーをした右サイドバック加地亮、どちらの選手が獲得してもおかしくはなかった。サイドを上手く使って上下に駆け回り、必要な時は内側に回り込む。90分間にわたって精一杯試合に傾倒していた。」


しかし、日本チームを牽引していたのは中田だった。「中田は日本の攻撃を組み立て、さらには彼の周囲の選手たちに指示を与え、チームの原動力となっていた。自身がボールを支配していない時でも確実にプレーに絡んでいた中田が、バドワイザー・マン・オブ・ザ・マッチに最も相応しい選手だと思う。」

8年間を凝縮した好セーブ 因縁の相手と分けた川口 2006年6月18日 by FIFAworldcup.com
by KYODONEWS
 勝ち点3をつかめず、試合後の川口の表情は険しかった。ただ正GKとしての充実感もあるはずだ。
 前半22分のPK。スルナが低くけったボールを、左に飛んではじき出した。序盤の絶体絶命のピンチを見事に救う好セーブ。この一瞬に、さまざまなことを経験した8年という時間が凝縮されていた。
 あの時もボールには触った。しかし無情にも背後のネットは揺れた。1998年6月20日、フランスのナント。ワールドカップ初出場だった日本は第2戦にクロアチアと対戦した。後半32分、GK川口はクロアチアのエースFWシュケルの巧みなシュートを防ぎ切れなかった。
 0−1の惜敗。2連敗で、日本の1次リーグ敗退が決まった。「あれは印象に残っている。悔しさとして…。僕らの夢が絶たれたから」。あの時の感触がその後の川口の原動力にもなった。「何が何でも点はやらない。絶対に倒す」。同じ悔しさだけは味わいたくなかった。
 3度目のワールドカップまで、険しい道のりを歩んだ。2001年に移籍したポーツマスイングランド)では大量失点のスケープゴートにされ、クラブ会長から「日本に帰れ」と言われたこともある。不遇の時期に迎えた前回大会は心身とも準備が整わず、ベンチを温めた。
 出場機会に恵まれず、孤独な時は読書にふけった。司馬遼太郎の小説を読み、苦闘する自分と歴史上の英雄を重ね合わせて勇気をもらった。デンマークでのプレーを経て昨年、Jリーグに復帰。「欧州では自分を見つめ直せた。トンネルの出口が見えない時期もあったが、その経験で何事も前向きに考えられるようになった」と話す。
 この日で国際Aマッチ出場は91試合となり、三浦知(横浜FC)らと並ぶ歴代2位に。わずかな可能性に懸けるブラジル戦でも、独自の強さを体現するつもりでいる。(ニュルンベルク共同)
(了)

痛かった柳沢のミス=ブラジル戦向け必要な決定力 2006年6月18日 by FIFAworldcup.com
by AFP / jiji
 2点差以上の勝利、しかも相手は前回王者。日本はクロアチア戦に0−0で引き分けた結果、第3戦のブラジル戦で非常に厳しい最低条件を突き付けられた。何より求められるのが、改めて浮き彫りになった決定力不足の解消だ。  「ゴール前までボールを運んではいるが、ゴールネットに入れることができなかった」。ジーコ監督はクロアチア戦後、こう嘆いた。  象徴的だったのが、後半6分。右サイドで加地と高原がワンツーでつなぎ、相手を完全に崩した。ラストパスを受けた柳沢はフリー。だが、流し込むだけでよかったはずのシュートは、ミスキックで枠をとらえ切れなかった。  柳沢は「インサイド(キック)でければ、また違っていたかもしれない。うまくいかなかった」と判断ミスを悔いた。だが、その瞬時の決断がゴール前では成否を分ける。「ストライカーというのはそれだけ難しい仕事」と指揮官は言った。  ジーコ監督は日本FWの欠点について、「落ち着きがない。ゴールにパスするようにシュートすればいい」と話したことがある。その「落ち着き」をものにするために課しているのが、毎日繰り返されるシュート練習だ。  ブラジル相手に何度もチャンスをつくり出すことは至難の業だ。90分間で数度あるかないかの決定機を生かせるか。決勝トーナメントへの道を切り開くカギになる。(ニュルンベルク時事) [時事通信社

柳沢、沈痛 目うつろ 好機にFW金縛り
 声はか細く、目はうつろ。柳沢は試合後、沈痛な面持ちで、この日最大の決定機を振り返った。


 「ぼくのシュートチャンスはあの一本だけだった。急にボールが来たので。足の内側でければよかったが、外側でけってしまった」


 悔やんでも悔やみきれない。後半6分、加地が右サイドから送った低いセンタリングを痛恨のシュートミス。目前にあったゴールの枠さえとらえることもできず、ボールは力無く右へそれた。日本の決定力のなさを象徴するシーンだった。


 好機はありながら、初戦に続き頼みの2トップが沈黙。柳沢とコンビを組んだ高原は、それでも気丈に言った。


 「チームとして何回かいい形ができた。全体的にミドルシュートを打ったし、クロスもあった。初戦も良かったが、それが90分できなかった」


 しかし、展開がどうあれ、わずかなチャンスに賭け、それを生かすのがFW本来の職責だろう。
中日新聞 2006年06月19日 抜粋)